身近にある修行、気づくが得
修行というものは、普段の生活でも意識次第ではあるとのこと。正確に言えば、修行というものは、『させてもらうもの。』
そう山主から修行についてたくさんお話を聞いた。
【ただし、ここからは私(後藤道場スタッフ)が感じ考えて導き出した思いを文にしてあります。】
例えば、主婦であれば毎日の茶碗洗い。茶碗洗いと言うと億劫であったり、どうして自分ばかりが毎日しなくてはいけないのか?などと、小さい絶望感を感じることもある。
しかし、意識を変えて茶碗洗いは『修行』として『させてもらっている』ものなのだと。
これは決して、自らが修行をしないといけないからしているというより修行としてさせてもらえている、その先に得るものがあると、大袈裟に言えば、希望の光がある。
違った言い方をすれば、何事も意識すればやっている意味があるということの結果につながる。
だから、そう意識することで、茶碗洗いにも修行に対してもストレスというものは受けることはなくなる。
とはいっても、今まで日常で嫌だなと思いながらしているものを、急に修行として意識できるか?というと難しい。
なぜ和尚さまは修行をするのか?簡単に言えば、修行をすると感覚が研ぎ澄まされる、見えないものを感じるようになれる(いわゆる幽霊などではありません!)、人の表情や動きから思いを読み取れるようになる、など、今の自分では感じることのできないものを感じることができるようになる!だろうと思います。
まあ、その感覚を得ないと真実味もないし、本当にそこまでいけるのかも疑問に思うだろう。
ただ、これはとても価値がある。人間は、修行をさせてもらえるという機会を持てている。
そしてまず、何より人間は想像する力がある。予想することができるから不安になる。長い先のことまで予想や想像できるのは人間くらいと聞いたことがある。それも能力のひとつ。
できないことができるようになるかもしれないという夢のような可能性。
それがまず、日々の意識を変えるだけでもその方向に向かえるなら、ぜひ修行をさせてもらって日々を過ごしたい。
実は私は普段、修行だと思い、していたことがある。スーパーの買い物や大量にもらった食料品の消費。ただ、私は修行をしているという少し苦痛も感じていたので、ストレスにはなっていた。なので、『修行させてもらっている』に気持ちを変換していこうと思います。
人としての思いがけない成長のために。
まだ知ることのない自分の可能性に出会えるときがくる。